アンコールワット乳海攪拌のレリーフ

▲綱引きの最高潮の場面。亀の王クールマの背にマンダラ山を載せ、それを軸棒として引きあう。中央はヴィシュヌ神。


ヒンドゥー教の世界観が現われた天地創造の物語


アンコールワットは、古代、インドからカンボジアに伝わったヒンドゥー教の宇宙観を表していると言われていますが、一体この大寺院のどこが、どのように、どんな形で表しているのでしょうか。

その一つの答えが、アンコールワットの第一回廊に描かれた乳海撹拌の浮き彫りにあります。

「乳海撹拌」は、古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ(※1)』や『ラーマーヤナ(※2)』にあらわれるヒンドゥー教の天地創世神話で、アンコールワットの第一回廊には、その内容が50メートルにもわたって浮き彫り(レリーフ)で描かれています。

世界が水から生まれるという考え方は、各地のさまざまな文献に見られますが、神々とアスラ(悪鬼)が乳海を撹拌することでさまざまなものが生じるという「乳海撹拌」の神話もそれにあたります。

ヒンドゥー教の世界の中で、神々・太陽・月・雲や雷などはどのように誕生したのか、日蝕や月蝕はなぜ生まれたのかを知ることができる、興味深い物語です。

 

乳海撹拌のあらすじ


「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」に出てくる乳海撹拌の話のあらすじをご紹介しましょう。
太古、不老不死の霊薬アムリタをめぐり、神々とアスラ(悪鬼)が壮絶な戦いを繰り広げていたが、両者は疲労困憊し、ヴィシュヌ神(世界の維持神)に助けを求めた。それを受けて、ヴィシュヌ神はこう言った。

「争いをやめ、互いに協力して大海をかき回すがよい。さすればアムリタが得られるであろう」


それを聞いた神々とアスラたちは、天空にそびえるマンダラ山を軸棒とし、亀の王クールマの背中で軸棒を支え、それに大蛇を巻きつけて撹拌のための綱とした。

神々がその尻尾を、アスラたちがその頭をつかんで上下に揺さぶり始めると、すさまじい炎とともに漆黒の煙が大蛇の口から立ち上り、そこから雷雲が生じて大雨を降らせ始めた。
だが、肝心のアムリタは出てこなかった。神々とアスラはさらに大海を撹拌し続けると、大海はやがて乳海となった。

アンコールワット乳海攪拌のレリーフ
▲助勢するサル面の神と尾を高く跳ね上げる大蛇ヴァースキ。神の背後には、槍と剣を持ち神々の応援にかけつけた人々の姿がある

アンコールワット乳海攪拌のレリーフ
▲五つ頭のヴァースキを引くアスラの王

しばらくして良質のバターであるギーが湧き出て、そこからヴィシュヌ神の妃ラクシュミー、ソーマ(神酒)、太陽、月、宝石、家畜、白馬などが次々と現れ、ついにアムリタの入った白い壷を手にした医の神ダンワタリが姿を現した。

ここから、アムリタをめぐる争奪戦が始まった。

アスラたちは、なんとかしてアムリタと女神ラクシュミーを奪い去ろうとしたが、ラクシュミーに姿を変えたヴィシュヌ神が近づき、その美しい姿で欺くと、アスラたちはラクシュミー女神に化けたヴィシュヌ神にアムリタを渡してしまった。

騙されたことに気づいたアスラたちは、神々を追いかけ始めたが、ヴィシュヌ神からアムリタを受け取った神々は、分け合って飲み出した。

その中に、神に化けたラーフというアスラがいた。ラーフがアムリタで喉を潤そうとした瞬間のこと、太陽と月がそれを見破ってヴィシュヌ神に知らせると、ヴィシュヌ神はラーフの首めがけて円盤を投げつけ、ラーフの首を切り落としてしまった。

すると、断末魔のような叫び声とともに、頭だけが不老不死となったラーフの首は天空へ舞い上がった。このときから、ラーフの首と太陽・月との間には憎悪が生まれ、ラーフが太陽と月を飲み込む度に日蝕と月蝕が生じるようになった。

一方、アムリタの争奪を繰り広げていた神々とアスラだが、ついにはヴィシュヌ神の力に圧倒されてアスラたちは逃げ去り、アムリタは神々のものとなった。



アンコール・トムの構成にも取り込まれた乳海撹拌の物語

アンコール王朝の中枢であった都城アンコールトムも、乳海撹拌がモチーフになっていると言われています。

アンコール・トムも乳海撹拌がモチーフに

周囲を環濠で囲み、その中心にバイヨン寺院を置くというその構成は、環濠を大海に、バイヨン寺院を宇宙の中心であるメール山に見立てたインドの宇宙観を表す聖域としても機能したと考えられていますが、そこには乳海撹拌の構図が取り込まれているというのです。

アンコールトムの門前に立ち並ぶ彫像たちが、綱(蛇神)を引いてバイヨン寺院(メール山)を回転させ、乳海(環濠)を撹拌し、そこからアムリタ(収穫)が得られるというものです。

アンコール地方には、乳海撹拌が同様のモチーフとなっている遺跡がほかにもあります。


メール山は乳海撹拌のなかでマンダラ山として描かれており、太陽はそのメール山を中心に日の出と日没を繰り返すと考えられていました。

春分の日と秋分の日に、メール山に見立てられたアンコールワット中央塔の真上から太陽が昇り、西参道を通って沈んでいく様子は実に象徴的です。

アンコールワットから昇る朝日
▲アンコールワットの尖塔背後から昇る太陽



ヒンドゥー教の宇宙観の現われと言えるもう一つの答えは、アンコール地方の「理想的」な立地条件です。

アンコール地方は、クーレン山(プノンクーレン)と東南アジア最大の湖トンレサップの間に位置し、クーレン山を水源とするシェムリアップ川がアンコール地方を縦断して南のトンレサップ湖に至っています。

カンボジアにヒンドゥー教の宇宙観が入ってくると、アンコール地方に豊かな実りをもたらす水源地クーレン山は、ヒンドゥー教の神々が住むメール山として、その水源から流れ出るシェムリアップ川はインドの聖なる河ガンジス(ガンガー)として見なされるようになり、人々はそれらの近くに都を造ったのです。

クーレン山の滝
▲シェムリアップ川の水源があるクーレン山の滝



ガンガーは霊峰ヒマラヤの娘として生まれ、天界で育てられたと考えられており、信仰の対象となっています。そのガンガーについて、次のような話が伝わっています。

ガンガーに対し、下界に天降るよう懇願する地上の王がいました。ガンガーはその願いを聞き入れることにしたのですが、いったいどうすれば下界に降臨できるのかわかりません。そこでシヴァ神が呼び出され、天上から流れ出るガンガーの水流をまず額で受け止め、頭髪の間から少しずつ地上に流出させるようにすることで、ガンガーを下界に降臨させたのです。

この物語の背景を証明するかのように、シェムリアップ川上流の二つの支流の河床にはシヴァ神を象徴する多数のリンガ[男根]が彫り込まれています。

リンガ
▲クーレン山を流れるシェムリアップ川の河床に彫られたリンガ


鑑賞の2大ポイント~浮き彫りをもっと楽しむために


さて、最後にアンコール・ワットの浮き彫りをもっと楽しむ上で役立つ鑑賞ポイントをご紹介しましょう。

乳海撹拌の壁画

1、描写の構成

浮き彫りは平面のなかに遠近を取り入れた構成となっており、壁面の下部が近景、中央部が中景、上部が遠景となっています。 現在、絵画などでよく用いられる遠近法とは違った遠近の出し方をお楽しみください。

乳海撹拌の壁画

2、ひとつずつ区切ってみるか、全体を通して動画のように楽しむか

乳海撹拌の浮き彫りだけでも、その長さは約50メートルという大画面のため、何となく歩きながら見ていると全体がぼやけてしまいがち。そこで、二つの見方をご提案したいと思います。
(1)ひとつひとつの場面をじっくり見る
一景ごとにじっくりと味わう見方です。神々やアスラ、動物、人物などの細かい動きや表情などにも注目してみると、アンコールワットの繊細さがよく理解できます。
(2)全体を通して動画のように楽しむ
浮き彫り全体をひとつのストーリーに見立て、ゆっくり歩きながら連続する絵巻物の物語をストーリー豊かな動画のように味わう見方です。浮き彫りを生み出した古人が何を伝えようとしたのか、その全体像を把握できると思います。

文:カンボジア担当
◆解説

※1:マハーバーラタ
古代インドの大叙事詩。名前は「バーラタ族の戦争に関する大説話」の意。物語は月族の子孫バーラタ族の流れをくむクル家とパーンダヴァ家の2つの王家が領土をめぐり大戦闘を繰り広げた結果、パーンダヴァ側の勝利となる顛末をテーマとしています。

※2:ラーマーヤナ
古代インドの大叙事詩。『ラーマーヤナ』とは「ラーマ王行伝」を意味し、古代インドの王国コーサラ国の王子ラーマの武勇譚(たん)を主題としています。
【参考文献】
・山際素男編訳『マハーバーラタ』三一書房
・瀧川郁久「医学書の乳海撹拌神話」東海大学紀要海洋学部「海–自然と文化」第8巻第1号
・ブリュノ・ダジャンス著、石澤良昭、中島節子訳『アンコール・ワットの時代』連合出版
・石澤良昭編著『アンコール・ワットを読む』連合出版
・石澤良昭『アンコール・王たちの物語』日本放送出版協会
・Vittorio Roveda, Sacred Angkor: The Carved Reliefs of Angkor Wat, River Books Press Dist A C



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